僕は音楽会以外の「ブログ」など、特になにかを食べておいしかっただの、あそこの店がよかっただの、不特定多数相手を想定して書くことは自分ののよだれを人に見せるみたいなものと感じ、やる気は全くないのだが、今書く気持になった。今朝時間があったから。
《コンビチュニ―の演出したサロメ》を見た長い感想。
2月の終わりに上野文化会館で見たサロメは今まで見てきた欧米のどのサロメよりも「感動」があった。運が悪かったのかもしれないが今まで僕が見てきたオペラサロメは、おおむね、中東系の衣装をまとい演出はサロメダンスを中心とした、どこか人々に「異常な世界を覗き見させるオペラ」という印象に終始していた。
すなわち
+変な服
+変な金満王族の生活
+異常な親子関係
+突然の理由のはっきりしない=変な士官役の自殺
+イカレタ思春期の娘のヌード→それも概してデブの歌い手による15才の娘が踊っていることにするという、席を立って帰りたくなる踊り・・・お能じゃあるまいし・・・または変に踊りのうますぎるプロダンサーによる代理ダンス・・・・
+なにより、(舞台設定で)異常者扱いされた「預言者ヨカナーン」の酷い扱い
+最後に首を切る音と言う擬音的音楽?後の、斬首人形おもちゃとの見るに堪えないキスシーン等々。
まだまだある。・・・・がこれらすべてを、「お客側は、正常者又は常識ある生活者」と言う決め付けた「覗き見オペラ」のような演出に終始していた(僕の多分10回ぐらいの少ない?サロメ経験ですが)。
それをコンビチュニ―が天才的に、大変音楽的にきれいさっぱりうっちゃってくれたのだ。世界中のオペラファンにとっても乾杯ものだ。
世の中「読み替えオペラ」が氾濫し、「普通にやってよ普通に!!」と叫びながら帰ってきたオペラが幾らもあったが(今もある)、これは基本が違う。何と言っても「音楽中心」なのだ。悔しいが2代目のせいなのか?指揮者でなく指揮者の息子だからか?冗談はさておき・・・
例えば、演出のクライマックスをモノローグである作品最後のサロメの歌に持ってきてくれた事(考えれば当たり前、当然なのだ!音楽はそう書いてある)。また、サロメのヨカナーンへの偏った?恋愛(恋愛なんて偏った心の動きだろうに)表現の歌《愛は苦いもの、でもそれが何だ!》の背後に中年も過ぎたヘロデ(素晴らしい、いやらしい高橋淳さん!はまり役)とヘロデアスとの腐ったような苦い、日常の積み重ねの存在として見せ、サロメの一瞬の血の滴る接吻と対比させるという判り易い(わからないのは子供だけだろう)設定としたこと。
例えば、7つのベールの踊りをサロメに踊らせずサロメが周りの人々を踊らせる・・・踊りを見るという行為とは相手の心を躍らせるという・・・指揮者として又は演奏者としては、特に良く判る演出。
例えば、突然自殺するという設定の若いナラボートとかいう男は、薬か酒かで自分が判らなくなったヘロデ王が何気なく殺す・・・それを自分でも覚えていない、周囲の家来は権力者である王のしたことだから「見ていない、わからない」と言ってしまう、いわゆる裸の王様状態・・・多分どこかの創業社長の最後とかにありそうな、良く判る演出。
例えば、ヨカナーンの座った周りに座る人々の、《最後の晩餐》的構図・・・・これなんかキリスト教原理主義者?に殺されそうな方法・・・なぜなら、この後に行われたキリストの行為をすべてヨカナーンの妄想と捉えているかのごとく、すなわちキリストはヨカナーンと同列の預言者の一人であるという、イスラム教の立場に立ったような危険なもくろみが良く判る演出。
例えば、僕が軽薄にも常に言う「東洋人は衣装も動きも声質も体格もほとんどのオペラには合わない!やめとけ!」という壁を上手いこと、うっちゃってくれた設定だったこと。
幾らでも書き続けられます・・・・・そろそろやめますが。
まあ批判と言えば批判は、オケピットが深すぎオーケストラに弱音器が付いたような音で、R STRAUSSの豊潤なオーケストレーションそのものが、それこそ今回の、マスクをかけられたヨカナーン状態だったこと・・・・これはやはりまだまだ日本人歌手の声量が小さい事を「カバーする」判断なんだろうが。
このあたりはコンビチュニ―(なんと僕より1才だけ年上)もコンサートオペラ形式(井上が20年やり続けているのだあ!)を一度経験してみたら良いと思う。待てよ、彼にその必要はないか、周りの歌手の声もでかいしホールもうまい具合に小さいからな。でも昔のアメ車みたいに燃料?使い過ぎであることは確かだ。何時か日本の様な?新興国にやられまっせ。でも絶対死なないだろうけれど。
そうは言っても私はオーケストラプレーヤーも外で人に見られながら仕事?音楽?をするべきだと思うのだ。彼らこそ閉塞された部屋(ピット)から出さないと。ワーグナーは良い音楽だしバイロイトも素晴らしいが、オレタチャ欧米に住んでいるわけじゃない!
そんなわけであの古い設定、原水爆大戦後の世界のある閉ざされた部屋、または今日本人はメディアにかってに踊らされている《閉塞感にあえぐ日本》と言う幻想なんか早いとこ自分で吹き飛ばすべきなんだ。人々の人生はみな主観なのだ。後期ロマン派の閉塞感とか、世紀末の芸術とか、みんな後から名ずけられたもんだ。確かにコンビチュニ―もそれは感じ、知っているようで、小さな天使のような子供が最後に出て世の希望よ我に続けと温かい結末。子供の未来は末広がりなんだというわけだ。でもそれって逃げだ。自分で朝起きたら自分で毎日子供のように生まれ変われってんだ!
・・・・・・こんなこと書いて一文の足しにもならない・・・・シュトラウス先生はこれらでシコタマ儲けたのにふふふ、彼の「4つの最後の歌」を聴けば80才になっても彼は毎日朝をそして夜を充分に生きていたことが判る。俺も負けない。
最後に多田羅さんご苦労様ありがとう。
以上
井上道義 2011年2月26日異常な朝に
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