昨日の大宮と今日の横浜で長い日本フィルとの関係が終わった。日フィルは
僕が日本ではっきりとデビューコンサートをやったオーケストラ。学生の頃からよく
練習を覗きに行っていたし、分裂の頃は丁度都響の副指揮時代だったと思うが、
旧フジテレビの中に有った練習場が懐かしく思い出される。と書きだした疲れた
また後でかく////続き
あの時代はオーケストラも少なく、ホールも少なく、レコードは高く、調べる時は
図書館に行っていた。春の祭典を暗譜で振るマルケビッチは宇宙人と感じた。それを
何十年後かに、自分がやり、いつの間にか千葉県少年少女が暗譜で演奏した。
高速道路というものが出来始め新幹線が出来始め、飛行機代が安くなり始め、横浜港から
外国に行く人は居なくなり、日本は東京に人が我も我もと集まりどんどこと地価が
値上がりした。その後どんどん世界中同じようになり始めた。ブランド品は地球の裏側
でもおんなじ物を売り、珍しいものというものが少しづつなくなった。
ショスタコーヴィッチを、今、珍しいと言えなくした張本人は僕かもしれない。
壮年期迄、僕にとっても心の支えだったマーラーでも、日本フィルとは大いに物語がある。
シカゴ響にマーラー9番をラファエルクーベリックの代わりに指揮してくれと依頼され、
日本フィルの定期演奏会を延期してもらおうとしたとき、当時の事務長と大揉めに揉め、
それから日本フィルは長く振らないことになった。でも、時は経ち・・・最近は多くの
演奏会や演奏旅行もやって...昨日最後のコンサートが横浜だった。
「みなとみらい」という名のホールだが、僕にとっては「大切な過去」としての刻印だった。
佐藤晴真君との2番のコンチェルトはそんなストーリーにふさわしく、ユーモアと牧歌調の
音楽に満ちたショスタコーヴィッチとしては珍しい平和なものだったが、彼のチェロの弦が
演奏始まって1分で切れた。以前、服部モネとのコンチェルトでは、肩当てが落ちて危なかった。
平和は続くとは限らない。
10番のシンフォニーも日本フィルと僕は短めな練習時間に責任をもって挑み、自分の世界を
時には曲げたように見せかけたソヴィエト時代の天才の音楽の空虚感を満喫?してもらうため
愛情あふれる努力でもって演奏した。「人間の尊厳」を音に出来たと思う。
楽員さんから包み隠されていない裸の香り立つバラの花を頂いた。
