新国立劇場イタリアのトルコ人を観て

2026.10.14

【道義より】

東フィルのメンバーが歌がとても良いので聞きに来ませんかと誘われて行ってみた。切符は3万を超える値段だったがお客さんもたくさん入っていて驚いた。このようなプログラムで数回ここまでお客が入るようになったのは、監督の大野和士は勿論、スタッフ一同の長年の努力の結果だと思うし、きっと高齢の人々の楽しみにオペラが浸透してきた証拠だ。平和が続くことを祈る。

しかし、この棺桶に片足を突っ込んだ引退道義じじいは不満タラタラで我慢出来ず、検索すると賞賛の声がほとんどの人々の声を向こうに回して書きます。10代のころから音楽会やオペラに行って周りの人々がブラヴォーや大拍手の中(世界どこでも)、席を立って帰ることも多かった俺は最後まで価値観のずれる違和感に囲まれて人生を終わるのだろうか。

東フィルの演奏は当日序曲でソロホルンがフニャフニャだった以外、総じてちゃんとやれていた。そして、指揮の若いアレッサンドロ・ボナートはちゃんと振っていた。でも・・・どちらも、自分事にして語ってなく、カタカナ当て字で歌っていた。テンポ変化に、音量変化に、間の取り方に面白味がなかった。

歌手は皆素晴らしいかった。ザイール役の但馬由香は発声の基礎の学びに失敗があるようだが。高い声域が多いナルチーゾのルジル・ガティンは良く言えば個性的な声、すっきりはしないけれど無理なく高音サーカスをこなしたが、演出家は彼にどのような人物を与えて描きたかったか不明なままで、フッと笑いが出るような場面はなかった。                                                          タイトルロールのトルコ人はスキンヘッドで身体も申し分なく男のセクシーさを表に出しながら嫌らしく、演出の意を汲み、演技が最もよかった。この人こそブラヴォー。ソプラノのムスキオはロッシーニにピタリの軽さで若さが味方し?・・・てなかった・・・・何故なら平凡な旦那に飽きて、雑誌の中に更なる男を夢想し始めている...どこにでもいる浮気性な生の「おんな」の魅力が足らない!これも多分歌手の資質を演出家が引き出せていなかったように感じた。旦那役パオロ・ボルドーニヤはいかにも飽きられそうなフツーさを醸し出し、歌も特にトルコ人との酒場でのデュエットでは音楽的にも素晴らしく聞かせ、引き出しが多い能力を見せていた。                                                 詩人役ブルーノ・タッディアも歌は魅力的だが演出的にはこの扱いが一番不自然。どう見てもロッシーニ自身又は脚本家自身の分身なのだから一人別世界の人間として扱えば済むのに、想像もしなかったのだろうか?それでは新鮮さに欠けるとでも考えすぎちゃったのか?いくら何でも多少ボヘミアン的な衣装を着せただけでそれこそ普通な隣家に住まわせてしまっては、なぜわざわざ読み替え演出をしたのだか意図不明になるではないか。いっそ今の日本にも良く居る怪しげな整体師や丸いガラス玉での占いをするジェンダー不祥な人物にでもするとかなら多少納得できないでもない。いやきっと録音聴きながら指揮の真似をするクラオタクのピアノ坊やとか。

でもでもでも

こういう舞台設定、ここ何十年と流行っている時代読み替えオペラ形式・・・見かけるごとに出来るだけ脳味噌を柔軟にしようと思っても、どうしても同意できない。いや毎回毎回心の中の葛藤が半端でない。場所を変えるのはまだ良いとして!でも時代を変えるのにはどうにも違和感が激しい。これは邦楽であろうがミュージカルであろうが同じ。ほとんどの音楽には作品が作られた時代の匂い、動き、上下関係、性別、国別、人種意識などが染みついている。音と一体の言葉自体の持つリズムからの肌触りも。それらを越えるためにはよっぽどの突き詰めた脚本家的演出センスが必要だ。

舞台演出だけがリブレットの内容を読み替えても、音楽的な時代性は置いてかれてしまうことがほとんどだ。演出家、多分音楽がちゃんと聞こえてないのだろう。適当なバックグラウンドミュージックではないのに。

ほんとの音楽と言うのは「時・空」を飛び越えて宗教よりも強く生き続けるが、演出家の自分の世界に、例えば今回のように僕自身70年代のイタリアの街のスタンドで売っているのをよく見かけた、安い雑誌の写真物語(フォトノベル)を舞台表現にアダプトするというのは・・・だから何なの?安直!

以前団伊玖磨の夕鶴を暑苦しい、劇中劇を狙ったもののそれも崩壊したような演出をした岡田利規に腹が立ちまくった。団伊玖磨の音楽はいかにも若書きで、日本語のアクセントやイントネーションを無理やりいじくって民話調以外のところは相当な知性を持って歌っても何を言っているか分からない音造りなので、あれが日本のオペラの原点だとか言われちゃっていることにもっと深い絶望感を持っているが、岡田氏もあそこ迄、民話調を壊したい欲望があるなら曲を書き直す(編曲する)か、オペラというものを一から勉強してからやるか、そもそもオファーを受けない方が良いとさえ感じた。資本主義がなんだかんだとか青いこと言わないで。

話をそらせてしまった。例として失言風に吐き出してみっともなかった。

今回のロッシーニの演出は

①あの時代世界はヨーロッパ中心でトルコはアジアの入り口の役目で日本では逆に南蛮人と名付けた常識の違う異人文化を意味していたのにその部分が欠落、ただの白服キザ男。
②写真物語の枠は絵画の額とは意味が全く違うのに額縁を人が動かしたり、上から紐で降ろしたりする四角い枠はどれも太さがおなじで、降りてき方、上がって行き方も、新国の舞台技術を駆使したようだが機械的で全く面白みに欠けるうえ、それを飽きるほど繰り返す。ああいうものは小劇場では雄弁になるが。
③そこにシンクロすべき照明はサイズもタイミングもこなれてなく、近年の商業演劇、ミュージカル等の精緻さに比べ遅れていた。
④そこに何故か集うのか不可解なピンク系の背広などの合唱団・・・歌は上手いのだがいかにも言われた通りに動くだけなのは、彼らの実力を掘り起こせない演出家の想像力の貧しさ・・・リハーサルでの言葉の壁かも。
⑤装置がわざとらしく薄っぺらいのは御愛嬌だが、舞台転換にも音楽の持つスピード感、スリリングな切れ味に寄り添うことは初めから考えていないようだ。揺れるような音楽が付けられている船でのトルコ人の登場はソプラノが体を揺らすのみ。ついでにここで書かねばならないのは指揮者が歌手を束ねることが出来ず舞台が先走り、結果オケが重く聞こえていた。若いから仕方がない部分があるがロッシーニ特有の「切れ味」、例えるなら、世界で唯一俺の車を制限速度を確信犯的に無視して追い抜き突っ走るイタリア人たちの気骨あるスリル好きがロッシーニの音楽の源泉だと思えるが・・・。待てよ・・彼らも今はオートマか?ペーザロのアルベルトゼッダはどのような方向でのロッシー二の復活を目論んだのだろうか?イタリア生まれの指揮者ならトスカニーニや今ならムティーの爪の垢でも煎じて欲しい。80年代の僕はゼッダさんにいろんな話をされたにもかかわらずオペラには何の興味も持たなかった桐朋日本の若造だったが。

以上じゃ


降福からの道 欲張り指揮者のエッセイ集
「僕の人生、音楽だけではないが、正面から指揮をやってきたらこれほどの発見があったことに驚いている!」

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