
今日は広島の原爆記念日。引退前は例えばサマーミューザとか、
もっと前は「道義の夏休み」コンサートシリーズとか、もっと前はサントリー
ホール「現代の潮流」シリーズ、もっと前は・・・・。
原爆記念日式典のテレビ実況を見る、考える、余裕がなかったが、今日、朝、
一人で、ゆっくり観ていた。
こんな灼熱のそれも青空の朝に4000度の爆発・・・。
広島に僕自身は1965年、桐朋の斎藤先生に連れられて広島でのオーケストラ
コンサートで訪れている。
川の土手には掘っ立て小屋がひしめいていてどんな生活なのか?との思い、
・・・は頭の隅に追いやられ、皆と一体になって演奏に集中していったのを強く
憶えている。
今回の県知事の話の中心の言葉に心を強く動かされました。
市長、首相、国連事務総長(代読)子供の宣言、それぞれではあったが、湯崎知事の
言葉の中に今まであまり公的な場で聞いた事のない、しかし重要な視点があった。
真珠湾開戦に触れて、「核を抑止力として保有すること」の一見説得力ある論理に
疑問を持ち,それを、否定さえするために、歴史=ペロポネス戦争、物理学=万有引力、等の
例を出した後、自信過剰な指導者の出現、高揚した民衆の圧力、という現在の米国や
ロシア又はイスラエルを思わせる事象の後に
【我が国も。力の均衡では圧倒的に不利と知りながらも、自ら太平洋戦争の端緒を
切ったように、人間は必ずしも合理的判断が常に働くとは限らない】
と、自らの国の過去の経験を赤裸々に語っていました。
この姿勢は、原爆慰霊碑に刻まれている
「安らかにねむってください過ちは繰り返しませぬから」
という、主語があいまいな文の在り方に通じ、この国の文化ならびに、日本語自体
の持つ哲学が反映されていて、世界に必要なのはこの考え方では?!と納得させられた。
地続きである地理的条件もあり、欧州では有史以来復讐に次ぐ復讐が今も止まらない。
宗教もその神の名のもとに殺し合ってきた。
勿論日本でも「国々」が弓や槍を刀を武器に国中で互いに競い合い、殺し合ってきた
・・・徳川の全国平定迄は。(ここでアイヌや琉球の話で足を引っ張らないように)
しかし、いつかこの国には「神も仏もあるものか」又は神仏一体の考えが取り入れられ、
悪く言えばその曖昧な哲学を自分のモノにして、いわゆる西欧のYES,or NO の分かりやすい
科学的な(?ですが)自我と他者との二元論に立った、善悪、男女、過去と未来、夜と昼、
プラスマイナス、等々で説明される世界観とは、かなり距離のある道を歩んでいるように
思います。(明治維新でその辺が変化を余儀なくされ、先ほどの開戦に飛び込んでしまう
非合理的な考えへ、と行き着くのですが)その2つの考えの相克が敗戦以来、抜け出せない
今の国の根無し草的精神風土となっていると思えます。
☆人間は必ずしも合理的判断が常に働くとは限らない
★人は善意のもとに大変な間違えさえ犯してしまうもの
愛というものの実像は「赦すこと」だと言えるのではないでしょうか?
米国は自国の中に大きな多様性を許容しています。ロシアも、ソヴィエトの時代より前から
広大な大地は多くの民族の多様性を包んできています。
今こそ全ての原子力による軍事力を捨てる、「抑止力という神話」を捨てるときです。
もう寿命は尽きそうだが僕の中にはイサムノグチも、イッセイミヤケも、D・ショス
タコーヴィッチも、L・バーンスタインも、デーモン小暮も生きているし、
育ての父の父の故郷は神石郡豊松村だ。
テレビでクラシック、それもオーケストラ音楽がそのまま伝わるかというと・・・・それは無理と言い切る。
【NHK/Eテレ】クラシック音楽館 / N響 第1849回 定期公演
一杯のお客さんに囲まれた昨日は、本当の意味で正直に、大フィルの持つものすべてが表現された音楽会だった。
大阪フィル《創立70周年記念》第50回東京定期演奏会
今日はさらにいい演奏になる と思うのが人間の原点。でも良い演奏という基準はなんだ?
N響 第1849回 定期公演 Cプログラム
一杯のお客さんに囲まれた昨日は、本当の意味で正直に、大フィルの持つものすべてが表現された音楽会だった。
大阪フィル《創立70周年記念》第50回東京定期演奏会
武満さんは、作曲家。死んだ後も続く強く存在!そう再確認した一日だった。
新日本フィル #568 ジェイド≪サントリーホール・シリーズ≫