小澤さんの憧れた成城にレクイエム

2025.09.07

【道義より】

先程、征爾さん追悼のコンサートに呼ばれて成城学園講堂(母の館)
でフォーレのレクイエムなどを聞いて帰ってきたところだ。終演後
10才くらいの女の子の「眠い早く家に帰りたい」という声が聞こえ、
お母さんが「この子はクラシックのコンサート初めてで慣れてないので」
と言うのも聞こえてきた。
「君は正しいよ、つまらなかった?お爺さんもだったよ、良いコンサートじゃ
 なかったんだから、今度は良いホールで良い音楽会に行ってね」
と伝えたらその子は助かったような表情を見せた。
あたまひかる仙人がなんだかんだ言うのはいかにも悪いセンスだ、と思うが

今日は書いておこうと思う。未来のお客さん、いやリーダー、果ては総理大臣の為に。
やれ、指揮者がどうだ、オケがどうだ、曲目選定がどうだ、ホールの響きがどうの、
とかいうような折角の征爾さんへの追悼するため集まり満員だった「せいじょっこ」
の一体感に僕が「批評」みたいな事するのは野暮だろう。でもそれも後半にすこし。


成城学園は、僕の入学する前、戦前から戦後の時期は国の最先端を行っていたようで、
学者、政治家、スポーツ選手、音楽でも、文学でも、相当の人々を輩出していた。

成城の町自体も成城憲章と言う土地や建物の規格の取り決めを作り、守り、矜持が有った。

澤柳精神と言うもので、自由活発で互いを鼓舞し旧弊を打破する勢いで広い世界に向かって
分け隔てのない情熱を貴ぶ、魅力を持つ学園だった。
「だった!」と書く。
多くの私立公立学校がその良さを模倣し発展させ、それぞれ発展したのが、64年の東京
オリンピックの頃で、高度成長時代とパラレルにあちこちで播かれた種が花を咲かせて
いた感があった。

征爾さんが憧れた成城学園はちょうどそんな時期、たった3年間中等科だけだったが、
後に近くの仙川に創設された桐朋学園女子!高等学校附属音楽科に進み、さらに
斎藤秀雄氏の、人生を懸けた音楽教育の精神を吸い込み、師の言う「日本人による
西欧音楽の日本人による自分化の{音楽の実験}を一生かけて、体現することになった。
彼は、毎日片道2時間ほどかかる遠くから登校していたが、中等科での授業料が払えず、
卒業時にはついに担任の先生が肩代わりすることを厭わなかったほど心の広い校風が
有ったのだ。
そしてちょうど日本の戦前から戦後の合唱音楽の中心であった成城合唱団や、その
中心的な人物だった成城町住人だった河津祐光さんたちの男声の黒人霊歌や
ロシア民謡のハーモニーに、子供の頃、奉天で家庭内で兄弟四人で讃美歌をハモッて
歌った経験のあった彼は、自然と心を奪われ、河津さんを見て指揮と言うものを発見し、
のちに斎藤先生に巡り合ったわけだ。
長じて基本的に今でも差別が消えない白人中心の米国中心に頂点を目指し、時代の
ヒーローとなっていった。
成城で培った人懐っこさと、分け隔てなく人の懐に入り込む生来の才能で、ボストン
で長くポディションを持ち続けていたが、住みたかったのは中学時代からの友達と
の思い出深い成城の町だったのだ。


・・・・しかし、その「成城」そのものが時代と共に、次第に後発の人々の
ステータスの表現の場所としてオカシナ方向に変貌していったのだ。
マンハッタンのロックフェラーセンターを三菱地所が買い、反日運動さえあった
80年代、成城の土地も暴騰し、相続税が払えない殆どの土地は分割されて売られ、
御屋敷町と言われた最低区画200坪(だっけ?)の区画は細切れになっていった。

私にはそんな成城の日本の中での「場」は、まるで世界の中での日本の立ち位置の
縮図のように思える。そしてこういう成城学園と成城の町がスタンダードの世界だと
思っていた井上自身は30才位になった頃、当然ながら違和感を持ち成城町から離れた。

大きな広い家(豪邸とか日本で言われる邸宅群は、世界的には非常に小さいコンパクトなものだ)
にはやはり三世代ぐらいが住むのがふさわしいだろう。そして家族だけでは庭の手入れ、
家の掃除もやり切れない。第一、家族構成自体が小さくなり、子供も4人居たりする家族は
少なくなっている。孫の世話も犬の世話も庭の世話も仕事もないおじいさんおばあさんは
親子ともども、好んでなのか老人ホームとかに別居?しはじめ、医学は発展し、寿命も
さらに長くなった。長生きは大変望ましいこととされる(らしい)・・・・・・。

そんな時代となってきて小さな家族には広い邸宅はまるでお抱え運転手のないセンチュリー
やロールスロイスみたいなものになってしまった。
このように現実が変化し、例えば、響き渡ってこそ意味がある楽器やオペラティックな歌を
ゆったりした天井の高い自宅で心行くまで吹いたり歌ったり奏でたり練習するとうるさいと
言われはじめ次第に出来なくなった。
前に書いたようなきびしい環境だった小澤さんが兄弟で響きを楽しみ歌えた「家」さえ
人々にとって「あり得ない贅沢」となってしまった。壁一つで隣り合う「部屋の家」では
騒音として嫌われることにさえなった。僕の子供の頃、音楽の鎌倉先生や森先生や
ピアニスト室井摩耶子先生、属啓成氏の家の近くを通ると歌やピアノの音が心地良く
聴こえたのに。
成城も人が多くなり過ぎ、縦に重なった住宅の東京には日本中から人が・・・。

だからなんだろう、恵まれた家庭の子女ばかりの成城学園の「講堂」があのように響き
であっても、誰も意に介さないらしい。とはいえ響きはどんなホールも一長一短なものだ。
ベートーベンの名曲中の名曲そして「響き」と言うものが絶対的に豊かでないと
成り立たない作品で最も演奏の難しく長大な「田園」を征爾さんへのレクイエムの前に
どうして選曲したの?小澤さんはあまり田園は指揮しなかった。
エグモントはとっても沢山振っていた。斎藤先生が全ての生徒に飽きずに振らせていたから。


そうそう、田園のスケルッツオは3拍子。2拍子じゃないんだから全ての小節がゆったりと
浮き浮きとしていないと。学校での昼ご飯の時間のようにね。
そしてティンパニーはフォーレでは全く違う響きでないとね。

フォーレのあの作品は教会での残響3秒4秒の中で奏でるように、弦楽器群も
ミニマムに書かれ、天上から恩寵が降り注ぐがごとくのパイプオルガンとか
金管楽器が鳴り響く「怒りの日」は、内面的な恐怖の響きとして描かれねばならない。
罪の感覚の不安から生じる怖れなのだから(プログラムに「この作品には怒りの日が書か
れてない」とあったが大間違いの説明文!!)ちゃちいスピーカー2個(二台とは言えない)
のエレクトーンで室伏さんに弾かせるセンス!はなんなの?あの場末の長屋みたいな世界!!!
あのサイズなら6台は最低必要。
結論
オーケストラも指揮も合唱も精一杯頑張っていたと思うが如何せんホールには
合う曲合わない曲があるもんだ。
僕と同様に年取った人が多い成城合唱団、ラテン語の響きをあそこで伝えるのは難しかろう。
すべてがカタカナに聞こえ平面的に聴こえていた。
きっと練習はミュージックホールだったんだろうなあ。隣りだけれど母の館でやらないとね。
響きが全く違うのだから。

僕や征爾さんの時代の新日フィルは練習場がお寺の地下の集会場だったり、国鉄跡地の
工場の食堂だったりしたが、そんな時代にわざわざ戻ってくれるなよ!

合唱きっと暗譜したらもっと心が込められたはずだそういう情熱はお客さんに伝わるのだ。
技術的に言えば一人一人の身体からの響き(発声)を深めて何とかもう一歩客席に
飛ばさないと。
そうしないと小澤征爾が憧れた世界にならないではないか!!!音楽は命かけてやるものだ。
「そういうものだだった」だけの過去のものなのか・・・。

天の征爾は怒って今、夜から光を奪っている、俺の頭みたいに変な色になってる。

気色悪い文を書いてると月食になっていた。月に憑かれたピエロな気分  レクイエーム エテルナーム


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