開眼というのは2001年京響時代に名古屋のコンタクトレンズ会社メニコンの社長さん
に委嘱されて書いたものですが、あれを機会に井上は文字通り作曲に開眼しました。
内容は道義の幼児時代の音の記憶すなわち生まれたショック!から始まり、戦後やっと
得られた両親の平和な生活の中でのBABYが、ダンスなどを含めた自己形成を経て、次第に
BOYに成長。孤独を知り、国という枠組みを知り、自分という存在の小ささを知り、
この世への自己の誕生の意味を受け入れる、という所で終わっています。
自分なりの題名は「鏡の眼」 自己認識の原点の音楽的表現。
どうもメモリーコンクリートを今観ると、オペラ「降福からの道」と同じような「時の再現」
があるようだ。この世に生まれ落ちた!という音、幼児の音の記憶、虫の音、家の普請の
金槌の音、鋸ギリの音、父親のタイプライターの音、遠くから聞こえる電車の
レール継ぎ目の音(洗足学園の現代っ子はそれらを知らなくて演奏には共感が無いようだ)
小学校の校歌と9歳の初恋の合体音楽、習ったピアノやダンスの記憶のパロディー、
酔っ払いの父親のイメージはビールジョッキと「さーけーーはのめのめのーむ~
なーらば~~」の合体音型、桐朋学園でのクラシック音楽との遭遇、青年の遠慮のない
猪突猛進の音楽、その後の突然の反省と羞恥の音楽、女性という存在への憧憬の音楽、
湖畔での語らいの音楽、と別離の音楽、大人になってしまって、自由だった幼年時代への
回帰願望の音楽、音楽家と言われなかった原生的自分表現の「音楽外でのカデンツア」
(ここでは洗足という言葉を利用してそんな不可逆な願望から足を洗うパントマイム)
最後は自分を肯定して前進だ!という歪んだ行進曲(この辺、学生さん達、かったるい)。
結婚したタマヨ音型の署名場面、日々、日常が過ぎ去っていく場面転換音楽、
(波形が上手から下手にエンドレスに移動するが当然録音ではそれは捉えられていない!)
幕を閉める教会の鐘の音が舞台外【駄目指揮者が忘れていて中でやってる】から聞こえて
白昼夢は終わる